| □ 間宮林蔵の立像 |
世界地図に唯一日本人の名を残した探検家、間宮林蔵の偉業を顕彰し、昭和55年7月建立されたもの。間宮林蔵がはるか樺太を望見している立像で、実物より2割ほど大きい、高さ2メートルのブロンズ像で日本最北端の地の碑際に立っている。彼が樺太に向けて旅立った地が第2清浜にある。 |
| □ 間宮林蔵渡樺出港の地 |
宗谷岬から西へ3キロメートルの第2清浜地区に『間宮林蔵渡樺出港の地』があります。文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵は、松前藩役人と第1次樺太探検に出発。このとき林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したという。同年、第2次樺太探検のためアイヌの船に乗って単身で出発し、トンナイで冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端部まで踏査して樺太が島である事を確認しました。この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が『間宮海峡』と命名された。 |
| □ 旧海軍望楼 |
帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に、国境の備えとして旧帝国海軍が建設したもので、当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊の海上監視が主要な任務だったが、日露戦争の終結に伴いその役割を終える。その後は大正9年沿海州で起きた尼港事件(アムール川河口から40q上流の港町、尼港で発生した事件で、ロシア革命後、日本のシベリア出兵に反対するパルチザンによる攻撃により日本守備隊と邦人合わせて700人が犠牲になる)では無線通信基地として、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用された。稚内では明治年代の建築物で現存する唯一のものになっている。 |
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| □ 宮沢賢治文学碑 |
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大正12年、銀河鉄道の夜で有名な文豪、宮沢賢治が稚内から樺太に渡った時に船内で創作したといわれている叙事詩『宗谷一』と『宗谷二』のうち宗谷二の一節が刻まれた文学碑があります。宮沢賢治は前年11月最愛の妹トシを失い『永訣の朝』『無声慟哭』を書き、勤めていた岩手県立花巻農学校の夏休みを利用して長い旅にでかけたのだった。 |
| □ 津軽藩兵詰合の記念碑 |
宗谷では多くの津軽藩士が厳しい寒さのため、水腫病などの病気で尊い生命を失いました。それから50年、日本の歴史に登場しはじめていたコーヒーが水腫病に対して効果があるといわれ、幕府は藩士たちにコーヒーを配給しました。コーヒーは薬として大切に飲まれ、治療に使われたといいます。コーヒーを知らずに亡くなった藩士たちを悼んで建てられたのが津軽兵詰合の記念碑。コーヒーは薬として使われていた。 |
| □ 宗谷海域海軍戦没者慰霊碑 平和の碑 |
宗谷海域海軍戦没者慰霊碑"太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、ワフー号によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため、平成7年9月に日米両国の遺族と関係者とによって設立されたもので、平和を願う両国民の気持ちが込められています。両国の平和と友情が再び壊れることのないように祈らずにはいられない。平和の碑"太平洋戦争終戦間際に攻撃を受けた稚泊航路連絡船の身代わりとなって爆沈した「第112号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるために、旧防備隊員からの寄付により昭和55に建立される。稚内は今も軍都のイメージが有る街です。 |
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